パラオ勤務1年半で考えたこと

隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。いくばくもなく官を退いた後は、故山虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の秀才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈々抑へ難くなつた。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。【613文字原稿用紙1枚半余】

 翌年、監察御史、陳郡の袁傪といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

引用:青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
底本:「李陵・山月記」新潮文庫、新潮社 1969(昭和44)年9月20日発行

かなり唐突な始まり方で恐縮ですが、これは中島敦「山月記」の冒頭部分です。私らの世代にとってはとても懐かしく、また初見の際のインパクトの大きさは忘れることのできない作品です。ちょっと長いですが引用しました。初見のインパクトというのは、いつか要素がありますが、実に簡潔、流麗な語調、漢文体のエキゾチズム、古代中国という舞台の神秘性等々、高等学校2年に上がった際、教科書を購入してすぐに開いて読み始めた時の引き込まれて行く衝撃は、今も肌に残っています。

第1段落で613文字、原稿用紙わずか1枚半余。これが『起』部、第2・3段落は『承』で488文字用紙1枚1/4で、起承部合わせてもたかだか1102文字で原稿用紙3枚に満たない。これほど簡潔な文章に会ったことはなく、到底及ぶべくもないですが、一つの手本として私の頭にいつもあります。

パラオへ赴任することが決まった際、改めて中島敦を思い出しました。彼は夭折したため寡作の作家ですが、亡くなる前の約8ヶ月間を旧日本時代の南洋庁に勤務したことは、教科書の略歴で承知していました。南洋庁とパラオは最初結び着かなったのですが、赴任準備で各所へあいさつ回りをするうち、コロール市街の古い写真を見て、コロール-南洋庁-パラオとつながり、数十年前の衝撃が蘇りました。パラオへの赴任はその意味でも期待の膨らむものでした。

赴任の話が出るまでのパラオに関する知識は、確か80年代の前半の頃にヒットチャート曲紹介の5分間番組の中で、当時流行っていた“Wine light”のメロディーの背景に映されていたのが、黄昏に浮かぶ島影(たぶんロックアイランドのどこか)の映像で、その映像の綺麗さの印象の強さから、洋上の楽園・マリーンレジャーの天国というものでした。

赴任して古いコロールの地図を手に入れ、その中に「中島敦居住」の表示を見付けた時は、彼はこのコロールのここに居住して山月記を書いたのかと、机の引出しの中で古い懐かしいものを見付けた時のような思いがしました。

パラオと日本の関係は今更私が言うまでもないですが、訪問者の中にリピーターが多くいること、また在留者にもかなり長期にわたって滞在している日本人も多いことは、滞在者の中にある種古い時代の日本への懐かしさがあるのではないかと最近ふと思いました。パラオ語になった日本語(「輸入語」というのだそうです)が1000語弱あることは知られていますが、輸入された時代を思うと既に70年以上前の日本語なので、パラオ人の同士の会話の中に挟まれる、どうも日本語らしく聞こえることばは、多少時代掛かっていて「昭和」が目一杯含まれている気がします。

先日支所のナショナルスタッフと外での仕事の帰りに車の中で、幹線道路沿いの側溝の掃除のことに話題が及び、その際彼女の口から『どぶ』という言葉が出て、既に忘れてしまっていた言葉に曳かれてその時代が急に行き帰りました。どぶはすでに側溝となり、蓋も掛けられて暗渠になっています。幸か不幸か、私はどぶが道の脇に開渠であったことしか知らず、家と家の間の路地の真ん中にあったという情景は知りません。どぶ板ということばは今でも選挙になると時折耳にしますが、どぶそのものが無くなっている日本からすれば、パラオ語の会話の中に懐かしさが潜んでいると感じる人は多いのかもしれません。

言葉だけでなく、時の流れが日本とは比較にならないほどゆったりしており、その時の流れも、老若男女を問わず、私たちの持つ遺伝子情報に訴える懐かしさがあるのではないかと、昨日偶々皆既月食という稀な機会に遭遇し、中天の月を眺めながら、およそ90年前に中島敦も同じようにつきを眺めたのかもしれないという感慨を抱きつつ、パラオ勤務1年半を過ぎて考えた次第です。

『山月記』は、引用した部分から『転・結』部へ進んでいきますが、短編であることから、中島敦?「山月記」?という若い人にも、ダイビング・シュノーケリングとは全く異なる情趣があり、面白いのではないでしょうか。新潮文庫に『李陵・山月記』の1冊が収められており、『山月記』と並んで『名人伝』は一読をお勧めします。冊子に拘らずとも引用URLで全文を読むことができますが、やはり印刷本を手にすることを推奨めしたいものです。

2018月2月1日記

パラオ支所長 宮田伸昭

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